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時の航海

河口龍夫

 
  「時の航海」とは何処に向かっての航海なのだろうか。それとも、時が海を航海するとでも言うことであろうか。時間は、特別に海を航海なんかしなくても、陸にも海にも空間のようにこの世界全体を覆いつくしているかのような存在ではなかったか。
  肺呼吸する我々人聞は陸に住めるが、鰓呼吸ができないので海には住めない。このように人が住める世界と住めない世界があるとすれば、住める世界から住めない世界へと冒険旅行がしたくなるようだ。住める世界は人間から「見える世界」であり、 住めない世界は人間からは未知で「見えない世界」のことである。とすれば、「見える世界」の時間と「見えない世界」の時間が同じではないかもしれないと思えてくる。そんな想像があってもいいのではなかろうか。そのことを確かめるために、 「見えない世界」の時を求めて時空を浮遊する船で航海に今まさに旅立とうとしているのである。
  その未知への航海の出航場所に相応しい港は水力発電所である。だが、出航場所に選ばれた水力発電所は、すでに水の音も聞こえず、発電もできない。水力発電所の導水管は水力発電の機能が止められた時から導水しない空洞になってしまった。 今やその空洞は、自然力を失った地球の空洞化した血管のように見える。 昔、透明で清らかな水が地球の生物の生息に絶対に必要な血のように流れていたのだ。水の音を失い空洞化した導水管から「時の航海」を知らせる水音とは異なった別種の音が流れ始める。
  向かって左の空洞からは、誕生して6ヶ月と4日目の赤子の心臓音が命を受け継ぎ継続を告げるように空洞に響く。さらに、右側の導水管からは、誕生してから2年と1ヶ月10日目の四足歩行をすでに終え人間らしく二足歩行が自由にできるようになり、 自主的に行動を求めるようになった幼児の心臓音が、未来の 「時の航海」を告げるように静かだが力強く鳴り響く。
  すでに発電所としては終わりをむかえた空間には、日本海の荒海で勇壮な漁をした漁船が、その漁船を我が身体のように巧みにあやつった漁師の老いと仲間の死とともに陸に上がり海岸に長い問眠っていた。 今眠りから覚め、あたかも死んだ水力発電所が美術館として再生したように、仕事を終えた漁船が再生し、未来の心臓音に見送られながら、「時の航海」の冒険に船出する。船には「見えない世界」と唯一通話ができる「魂」だけが積み込まれた。
  天空に舞い上がろうとする船は、天上の星座を地上の星座に置き換え、あたかも、「時の航海」の羅針盤として北斗七星を道づれにするかのように従えている。「時の航海」に必要なエネルギーは蜜蝋に包まれた夥しい数の蓮の種子である。10年前の雨と、 数百万年あるいは数千万年前の命が石になってしまった亀と、現代人に近寄せるためにブロンズに鋳造された旧石器時代の道具ペブル・トゥールに見送られながら今まさに船出するかのようだ。

(2008年6月5日)


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